身体の感覚が変わってきたことについての簡単なメモ

ここ2ヶ月くらいの間で、呉式太極拳の師匠である沈剛師父より、「身体の「密度」が、急に上がってきた」という言葉をいただき、また、自身での感覚を文章で残しておくことを強く勧められました。

自分の変化というのは案外分からないもので、また、師父は「とにかく褒めて伸ばすタイプ」、ということもあり、最初のうちは話半分、いや話三掛けくらいで聞いていた(←超失礼)のですが、冷静に自己を観察してみると、ここ数ヶ月の身体の変化は自他ともに、はっきり出てきていることもあり、数年したらまた見返してみるのも一興、と思い、以下にメモ。

慢架(がキツくなってきた)

ようやく一年ちょいになりますが、昨年の5月2日より、最低でも一日一回は慢架(呉式太極拳のもっとも基本となる型。108ステップの動作があります)を通す、ということを自分に課しています。どんなに体調が悪くとも、教室の稽古があろうとも、雨が降ろうと、風が吹こうと、推手大会の当日であろうと、翌日であろうと、です。まずまず急いでやっても30分はかかるので、他の練功や武器の復習などあわせると、ほぼ毎日1時間以上は自主稽古しているという計算になります。文字どおり死にそうな体調からのスタートだったので、はじめの頃は、起き上がり、車道を渡り、ごく近隣の公園に行く途中の坂道を登る頃にはゾンビのような動きをしており、いざ公園に辿りついて慢架を始めればなんとかやり切ることはできるものの、稽古が楽しくて仕方がない、などということは一切ないまま、淡々と続けています。さすがに習慣化してきたこともあり、幸いにして一日も休まずなんとか継続できていますが、相変わらず稽古に行く、という決断を行動に移すのは大変です。一日一時間、というのは、「武術家」の練習量としては驚きの少なさ(笑)かと思いますが、自分史上、能動的になにかを毎日行なう、という意味では、もしかすると人生で初の出来事であり、今後、身体と心が続く限り、このことだけは継続していきたいと思っています(……と、なんかスゴいことを鉄の意思で成し遂げたかのような書き方ですが、実際は、ソーウツの波がヒドくて死んだようになっている時に、このままどうせ人生の8割方を死んだような状態で過ごし続けるのならば、せめて動くだけ動いてから、また、死んだようになればいいや、と、なかばヤケクソで始めたことだったりするので、あまりフツーの人の生活に組み込めることではないかな、とも思います)。

まあ、このことだけなら単に、まあまあ熱心な太極拳修行者、といったところですが、競技推手の稽古をしている時に、「オマエは起式(厳密に言えば、ウチの慢架では、太極予備式になります。要は両腕を肩の高さまで、前方に上げて下ろす「だけ」の動きです)でちゃんと動けているのか?」と問われ、いろいろ深く反省して試行錯誤したあたりから、「脱力する/だがしかし、動く」ということが(すくなくとも、初期の段階においては)如何にキツいことなのか、ということをおぼろげに身体が理解しはじめたような気がします。最初のうちは、文字通りうめき泣くほどキツい思いをしながら「手を抜かない慢架」をやっている時期もありました。これだけに意識を取られすぎてしまうと、筋トレ的負荷に耐えたことによる自己満足、みたいな厄介は感情が出てきてしまうので、最近は少し揺り戻してゆったり、やっていますが、やはり一回打ち終えるとグッタリします。

背骨が「浮いている」感じ

当ブログでも何度か言及したような気がしますが、当方、長いこと、そこそこハードな腰痛を抱えております。なんどか痛みで(文字通り)身動きできなくなり、痛みを感じる神経をマヒさせるブロック注射のお世話になったり、それでも迫り来るシゴトをなんとかすべく、カイシャの床に俯せになって仕事を続けたり(まあ当然続くわけないんですが)、といった時期もありました。座業に由来するものなので、ずっと座っているとてきめんにシンドくなり、みるみる作業効率が下がってきます。また逆に、痛みが酷くないときでも、外出等で「ずっと立っている」状態が続くと、これまたシンドくなります。外出時に痛みが出ると、さすがにその場で横になるわけにはいかない、どうしようもない! ヤバい! というパニックに近い感情にとらわれ、むしろこの感情との戦いの方がシンドかったりするのですが、まあそれはさておき。

痛みの「根本」みたいなのは、だいたい腰椎の根元、5番の右側あたり、と決まっており、どうもそこら辺に負荷がかかる姿勢を無意識のうちにとっていた、ということが原因のひとつだとは思うのですが、この腰痛、呉式太極拳を始めてからも根治したとはいえず、教室で立った状態のままみっちり5時間稽古、みたいな時は結構シンドい思いをしておりました。

ある日、上記のようにカラダの使い方についていろいろ試行錯誤をしている時に、ときおり、当該の位置、つまり腰椎の根元付近右側の内部で「コキッ」という感触があり、身体が上半身の負荷から解放されたような感覚がありました。よく、椅子に座った状態で上体を左右に捻ると、背骨がバキバキ言う感覚があり、若干、アレに似てなくもないのですが、角度といい再現性といい、もっと微細な感覚で、完全に別のところが伸びている感覚です。

不思議なことに、この「コキッ」は慢架をやっている時以外は一切現われず、ほかの動き方ではどうしても再現できないのです。

で、この「コキッ」のあとは、腰痛がキレイに消えている。

しばらくはこの感覚が楽しくて、身体の内側から動くやり方をいろいろ創意工夫していたのですが、あんまりやりすぎると「套路で勁路の動きを露骨に見せようとして身体をウネウネしているダサい表演武術家」みたいになっている、ということに気付き、自粛するようにしています。

この感覚が来てからは、椅子に座った状態で、片方の腰にかかる圧力を減らした状態、を内部で作り出すことが多少うまくなったようで、長時間座っていること自体が怖くなくなりました。肩でも似たような状況を作り出すことができます(まあ、横着せずに立ち上がって動けばいいんですが。長距離ドライブとかだとそうもいかないので、コレは万人におススメしたいところです)。

今のところ、この現象は私の中では「腰椎を「伸ばす・緩める」という動作がちょっとだけできるようになった」ということになっています(解剖学的に合っているかどうか、また、そもそも正解かどうかは分かりません)。

上体の重さの変化が感じられるようになってきた

ここら辺にくると、「あくまでもそういう気がする」のレベルなので、本当のところ、どうなのかはサッパリですが、慢架をやっている中で、左右の脚にかかる重心を移し変える瞬間、腰椎あたりにかかっている上体の負荷がフワリと無くなり、またかかってくる、という感覚が出てきました。今のところは、この「変動」を捉われすぎて、上体がハネてしまわないように、という心もちで動いていますが、その方向性が正しいのかどうかはなんとも、ですね。いずれにしろ、意念をかけまくることはNG、とされているので、そこに心をとどめすぎないように、ということが、おそらく大事なのでしょう。

気功が鬼キツくなってきた

本来は正式な名称があるのですが、一応非公開なので……。気功とはなんぞ、とか、そもそも気功なんて言葉を当てるようになったのは最近のハナシで「太極拳論・拳経」や「太極法説」はおろか、「近代の書」と言って差し支えない「太極拳講義」にすら「気功」という単語そのものは出てこない云々……とか言い出すとキリがないので、「動きと呼吸を一致させて、あまり場所を移動せずに行なう一連の練功(動かずにやるものもあります。一般的な「気功」のイメージは動かないでやるもの、かもしれません。動きなしの気功、いわゆる「静功」は、初期段階ではいろいろキケンなので、「動功」中心にやる、というのが当派の考え方です)」だと思ってください。

当研究会では、熱心な学生の方には、早い段階でこの動作を教授しています。私もカタチだけはもう3年以上はやっていたのですが、正直、動作のついた呼吸法、くらいにしか考えておらず、この練功自体の意味が見えてくるのはずっと先だろうな、と捉えており、師父は「ここはめいっぱい、このように動く」と示範してくれるのですが、いまひとつピンとこないまま、動きを真似るだけ、という時期が長く続いていました。

しかし、ある時期から、要所要所の動きが、ものすごく厳しさを要求されている、と感じるようになりました。この練功自体、非公開要素が強いので、具体的なところは省略しますが、肩が回る動きをする際に、肩の力を使わないようにして、可動域いっぱいに動く、というのがものすごくシンドいようです(肩が力んだ状態で力いっぱい動いても、別段キツい動きである、とは感じられないようにできている。フシギ!)。

このことに気づいてからは、毎日の稽古の中に、必ずこの気功の練功を少しでも入れるようにしています。本当は全部やりたいところですが、なにせ真面目にやると30分くらいかかってしまうので……。

ま、これ以外にも「オヤ?」ということはもう少しあるのですが、文章にするほど整理されていないので、とりあえずはこんなところで。

上記の「コキッ」という感覚の話については、「ストレッチの在り方が百花繚乱なのはなんでか論」としていずれまとめたいなあ、などと考えております。

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